ピンポーン、ピンポーン。
「おはようございます、MHKの訪問員です。」
「は?」
 春になるとココみたいな安アパートには新生活を始めた入居者を目当てにして押売・勧誘の類が次々とやって来るようになる。
 よくは覚えてないが、いい夢を観ながら気持ち良く寝てた事には違いない。そこを起こされたので俺は最悪の気分だった。寝ぼけてたせいで反射的にドアを開けてしまった事を後悔した。門前払いか居留守を使えば良かったのだ。

 パッチもんのような社名に聴こえたが礼儀と愛想はいい。しかしそんなのは何の保証にもならない。
「あ〜。ウチはNHKなんか観てません。」
「テレビ放送じゃありません。MHK。夢想放送協会です」
 聞き違いじゃなかった。確かにそいつは最初の一文字を“エム”と発音した。
「あのね。新手の詐欺にしてももっとマシなアイデアでダマしに来いよ」
「失敬な。アナタ今の今まで夢をご覧だったでしょ。初恋の女性がやって来てあなたのものになってくれる夢。で、事に及んであなたったら縮こまっちゃって、ククク」
 頭から冷水をぶっかけられたようにイッキに目が醒めた。そうだ。確かにそんな夢だった事を思い出した。
「いま…何て言った」
「ですからね、あなたの初恋の、えーと」男はフトコロからボロボロの手帳を取り出した。
「あ。これだ。あなたの場合は、えー、“東みさ子さん”。高校一年の時同じクラスになった」
 俺は生まれて初めて、心臓を鷲掴みにされた気がした。「ショートヘアの似合うオメメくりくり美少女!小柄だけど女子剣道部主将。成績優秀で学年代表…しかしちょっと腐女子の傾向。だけどそのお蔭で唯一あなたとの接点ができて…」
 俺はハエナワ漁船の船員が網を手繰るより速くその怪しい男を部屋の中へ引きずり込んだ。
 きゃあ、と男は抱え込みで前転していって、部屋の真ん中ですっくと立ち上がった。
「こりゃまた乱暴な」
「な、なななな、なっっな」
「はい、なんで、お前がそれを!でしょう?さあ。そこです、MHKの売りは。ウチの放送はお客様の潜在意識に働きかけて、普段から抱いておられる妄想をピックアップしては放送プログラムを制作し、そうしてカスタマイズされた夢を直接みなさまお一人お一人の脳へお届けするオンデマンド方式のすんばらしぃサービスなんですよ。もちろん個人情報やプライバシーに関してはちゃんと保護されていますのでご安心を。」
「お前が知ってるって事はダダモレって事じゃないか!」
「私は担当ですから特別。いやあ、今朝お送りした《初恋〜思うがままラブコネクション》はどちら様にもウケが良いんですよ。お試し期間中なので無料で一ヶ月幸福な夢をお届けしてたワケで。で、本日お伺いしたのは本契約のお話で」
「なんだよ、その安っぽいエロゲーみたいなタイトルは。見ろよ、だいたいウチはテレビもパソコンもないだろうが」
「ですからMHKは直接皆様の脳へ送信するのでそんなもん要らんのです。あなたの頭に脳みそがないってんなら別ですがね」
「…ちょっと待て、それじゃ押し売りと同じじゃないか」
「なんとおっしゃる。我々のサービスはお客様の協力なしには成り立ちません。同時にお客様も我々のサービスなしには味気ない眠りしか訪れないんですよ?」
「今度は脅しか」
「ちなみに私どもがご請求するのは現金ではありません。お客様の満足感…幸福のエクスタシーから少〜しだけ、エネルギーを分けていただくだけなんです」
「な、なんだよ、それ」
「あ、ご心配には及びません。自動引き落とし式なんでお客様が全然意識しないままで全て手続きできますから。ただご本人の契約は戴かないと勝手にはできませんので」
 これは悪夢だ。これこそ悪夢だ。
「う、う、ウチはMHKなんか観てません」
「そうですか。あくまでそうおっしゃるのなら…では今すぐにあなたへの夢想放送を停止させて戴きますがよろしいので?」
「なんだ、そんな事ができるなら最初からそうしてくれよ」
「残念です。」
 ぷつん、と音が鳴ったと思った途端、視界ががらりと変わった。ずいぶんなローアングルで、俺は床にうつ伏せになって前を見ていた。
 目の前に幼い女の子が俺の顔を覗き込んでしゃがんでいる。待ってくれ、ま白なパンツが丸見えだ。なんだ?これは。俺はこんな夢を見る趣味などないぞ。
「ジャック、どしたの。怖い夢、見たの?」
 ジャックって俺のことか?どうも目がかすむ。色も薄く感じる。なんだ?この視界の真ん中にある毛だらけの黒い物は…?
 おれは反射的に頭を上げると途端に信じられないくらい視点が高くなった。
 女の子は俺の長い首に抱きついて何度も優しく身体を撫でてくれた。懐かしいその娘の匂いが俺を安心させてくれる。
「だいじょぶ。だいじょぶよ」優しいその声に俺はいつものように「ワン」と応えた。



《幕》


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