山の端から月が顔を出した。今夜は煌々と黄金に輝く満月だ。
 なんてデカさだろう。手を伸ばせば届きそうじゃないか。そして、限りなく美しい。

「いいかハンス、今夜こそ奴らを根絶やしにするぞ」
 右手からすでに半身を狼に変化させたシュルツが話しかける。血気にはやるシュルツはどうしても前へ前へと出たがるので困る。
「頭を冷やせシュルツ。奴らもばかじゃない。いくら俺たちが体力やパワーで圧倒しているって言っても」
「それだけじゃない。なんてったって俺たちは不死身だ」にたり、と笑ってつぶやいたのはこの前の戦闘の時にたったひとりで数十人の人間を片っ端から屠(ほふ)って連隊じゅうに名を轟かせたアドルフだ。狼の口を“耳まで裂けた”と表現したのは誰だったんだろう。うまいことを言ったもんだ。
 鏡に映した事はないが、きっと俺もそんな姿だ。空に向けてとがった耳、金色に光る瞳、毛むくじゃらの身体。

 だが俺はあまり気が進まない。敵だ味方だ戦争だ…なんてのは民族としてやむを得ぬ行きがかり上のことであって、俺本来の性格から言えば愛する山小屋にジッと籠もってひとりでモノカキでもして静かに暮らすのが夢なのだ。
 その点こいつらの血を好む事と言ったら、本当に見かけ通りのケダモノだ。
 いや、ケダモノも生きるために食料にすべく他者の生命を奪うだけの事だが、こいつらときたらそういうこととは無関係だ。
 殺すために殺す。しかもそれが楽しくって仕方ないって様子だ。全身に血を滴らせてても止めようとしない。火薬を使った強力で迅速に敵を倒せる武器があるにもかかわらず、こいつらは昔ながらに牙と爪で相手を引き裂く事を好むのだ。
 しかもその戦いの最中の、こいつらの嬉しそうな表情と言ったら。
 俺は悪魔を見た事はないし、いるのかいないのかも解らない。だが、もし悪魔が実在しないのにそんな伝説が生まれたのなら、大昔の人間がこいつらみたいなのを見て絵や伝説に残したのが悪魔なんじゃないか…という気がする。

 ふと、夜空を見上げる。いつの間にか月が中天に上っている。なんて美しい月夜だ。俺はいったい、こんな所で何をしてるんだろう。

 連中も…人間も俺たちに襲われさえしなければ、俺たちを滅ぼそうなどとはしなかったんじゃないか。
 俺には夢がある。本を書く事だ。昔の怪奇譚や伝説をまとめて後世に伝える事だ。
 正直言って、こんな異常でくだらない事をやってる場合じゃ無いんだ。山小屋の机に隠してきた、書きかけの小説をまとめあげたくて仕方がないんだ。そもそも俺が人間に牙を突き立てる理由すら無いんだ。

「いくぞ」唐突にシュルツが言った。
 えっ…と訊き返す間もなく、シュルツは月夜の射し込む森の中で駐屯している人間めがけて襲いかかる。
 突然の事にあっけにとられて声も上げられずにいる歩哨ののど笛に食らいつき、その爪で容赦なく相手を引き裂き、吹き上がる血潮に身を浸すたびに悦びに踊り狂うシュルツ。
 ふと見るとアドルフもいつの間にか敵の中で舞い踊っていた。
 舞い踊る…そう表現するのがもっとも相応しい。月光に照らされながら右へ左へ、アドルフの影が優雅な動きを描くたびにまるでシャワーのように黒い飛沫と人間だったものの部品が月光を背景に空中へ影絵を描く。それは月光のコントラストが描き出す妖しくも美しい悪夢そのものだった。

 反対に俺はあまり人間を殺した事がない。
 理由がなかったからだ。早くこの戦が終わればいい。こんなことになる前は、俺は人間とうまくやっていた。
 うまくやれるのだ。互いの存在と、互いの欠点を認め合う事ができれば。

 突然、背中に焼きごてを突っ込まれた気がした。
 その灼熱の痛みは容赦なく肋骨の間をすり抜け胸の筋肉を突き破って、すい、とごく自然に俺の目の前へ30センチほどの血に濡れた穂先を現した。
 槍だ。しかもその穂先は鉄とは異なる輝きをしていた。
「…あれっ?」
 それが俺の感想だった。槍の穂先は俺の胸から出て来た時と同じようにアッサリとひっこむと、その穴から噴水のように赤い血が噴き出した。
 見ろよ。俺の血も赤いだろう?たしかにお前らから見れば俺は化け物だろうけどさ…

 俺の胸に入って出ていった槍の穂先は美しく妖しく輝いていた。銀だ。あれは銀メッキをした槍だったんだ。月がゆっくりとその位置を変える。いや。俺が地面に対して横倒しになって行ってるのだ。
 いつの間にか月が雲の中に隠れていた。

「なんてったって不死身だ」アドルフは言った。でもそれは月が輝いている間の事だ。
 狼男だって本質は人間と変わらない。まして銀に身体を貫かれたらオシマイだ。ああ…山小屋の原稿。この体験も描き遺したかった…なあ…



《幕》


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