いま、何時だろう?
 私は腕時計をみてゾッとした。どうなってるんだ、もうこんな時間だなんて!?
 急に、である。ここ最近、急に時間が経つのが異常に早い。

 少し考え事をしていただけで数時間が経っていることがしょっちゅうだ。
 一日が、いや、一週間が、それどころか一ヶ月がまさに“翔ぶように”過ぎてゆく。
「一日が充実しているからよ」
 妻と別離れて十年以上。最近つきあいはじめた女性がそう言って慰めてくれるが、充実なんかしていない。だって、何も行動していないのに気づけば日が暮れていたりするのだから。

 この感覚をどう表現したものか。目覚めてるのに気を失っている…とか。
「歳をとるとそんなもんだよ」と年かさの先輩は言う。だが、彼らが体験しているらしき感覚はこれほどの喪失感はなさそうに思える。
 誰にも内緒で精神科医に相談をもちかけてみたが、医者というヤツはこうと決めつけると余程でないと自己の意見の殻から出ようとしないものらしい。
 いくら私が医者の唱える因果律に異論を唱えようとも、頑として持論を曲げようとしない。患者の素人判断として自分のプロとしての考えを押しつけるばかりだった。

 保健の効かない支払いを終え、クリニックを出た時はすでに陽は傾いていた。
 かなりの額を請求されたが、いつものようにボーッとして気づけば…というパターンだけは回避できたようだ。少なくとも、時間を無駄にした、という実感だけはあったから。
 くよくよと考えながら見知らぬ町を歩いていたのがいけなかった。いつの間にかよく分からない通りに迷い込んでしまっている。

 通りは狭く、民家の中に古そうな店が一軒だけ残っている。
 何気なく覗くと、ふいに中から「やあ、いらっしゃいませ」と声を掛けられた。
 見ると、下ろしたてのように糊の効いたワイシャツ、細すぎず太からず流行におもねることのない趣味の良いネクタイ、一目で仕立ての良さが見て取れるベスト。
 きちんと撫で付けられた白髪にはひと筋の乱れもなく、同じくま白な口髭から覗く口許の笑みときたら。
 まるで老紳士とはこういうものだと絵に描いたような人がいた。

「失礼ですが、もしかしたらうちにご用では?」
 勿論用事などないのに、何故かつい「はあ」と応えて店に入ってしまった。
「どういったものをお求めで?」言われて初めて、その店が時計屋であると知った。
 しかしこれは。なんというおびただしい数の時計だろうか。
 時計屋に時計があるのは当たり前だが、この数はちょっと度を越している。時計の博物館でもこうはいかないだろう。
「いや…すみません、ただの通りがかりです。帰ります」
 行こうとすると、老紳士の店主がこう言った。
「おや。あなた、時計の修理にいらっしゃったんですね」
「時計?いえ、これは古いものですが至って正確で」そう言うと、店主はカウンターの中からわざわざ出てきた。
「いえ、腕時計じゃなく。あなたご自身の時計ですよ」
「え?」
 店主は私の胸を指差して付け加えた。「この時計ですよ」

 店主が誘うまま、時計修理の間、客用にしつらえられた店内の椅子に腰掛けた。
「生命のロウソクの話を聞いたことがあるでしょう?」
「え?あ、はあ……あの…それぞれの寿命に合わせて長さがある…ってあれですか」
「似たもので人にはそれぞれ時計があるんですよ」
「あは。ロウソクに比べると随分モダンですね」
 ここにきて、私が今にも死にそうな顔をしていたから店主が仏心を起こして、ちょっと話でも…と相手してくれたのだろうと思った。「ふむ。そう。でもロウソクだって発明された頃はハイテクだったと思いませんか?」
「…なるほど」

「ロウソクはただ燃えるだけですが、時計にはいろんな機能がある…加速度計もね」
「加速度計?」
「そう。それは年齢と共にどんどん上がって行く。例えば私と貴男でも随分違うのですよ。個人的な時間の流れは。でもね」店主は突然、私の胸に手を突っ込んだ。
 ───いや、違う。服の内側ではなく、私の肉体の胸、正確には心臓のあたりに、である。私は気が狂った、と思った。もしかしたら既に私は狂っていたのかも知れない。
 彼女。あんな良い女が私なんかの恋人になってくれるはずがない。そうとも。あの時点で狂っていたんだ。
「ふむ。やはり、ね」
 店主は何食わぬ顔でいつのまにかその手に懐中時計を持っていた。
「ほら。これがあなたの時計。ね。加速度計が狂ってる」
「は…あ。」
「規則で詳しい事は言えませんが、あなたの歳でこの設定はおかしい。直しておきますから」

 気がつくと私は恋人と眠っていた。ゆったりと、甘い時間が流れていった──普通に。



《幕》


2001文字物語もくじ
←個々の幕へ直接リンクはこちらから。