「次は〜◯◯〜。◯◯〜。お乗り換えのお客様は…」
 昇ったばかりのまばゆい朝日が射し込む環状線の電車内に人影はまばらだ。長椅子に沈み込むように座っている私の耳に聴こえるアナウンスは徐々に意識の外へと遠のいて行く。
「まもなく〜。◯◯〜。◯◯〜。この電車は3番ホームに入ります。□□線へは…」
 …まだだ。目的の駅はまだ遠い。心地よいジョイント音のリズムに、連日の激務に疲れ切った身体は正直だ。だが乗り過ごしてしまわないよう、最低限の意識だけは目覚めさせておかなければ…。
 私は普段なら寝オチを怖れて絶対に座ったりしない。しかし今朝ばかりは誘惑に勝てなかった。腰を下ろし、周りにどんな客が何人居るかを確かめるとすぐに目を閉じた。

 ちかごろの私は、仕事に集中していても緊張のベクトルが少しズレるとたちまち意識を失う。そのくせ、ちゃんと寝具で寝られる夜には、どんなに疲れていても眠ることができない。まるで身体を横たえるという行為そのものが何か禁じられた特別な儀式ででもあるように。
 自律神経失調症ってやつか?しかし体力もだが、既に気力が底を突いている。すでにふた晩…いや、三晩か?もう、一睡もしていない。食事もまともに摂っていない気がする。わずか10分の休憩すら摂れずにぶっ続けで働いている…文字通り命をすり減らして仕事しているのだ。どうかしていると思うがどうにもならない。
 車輌がガクン、と止まって駅アナウンスが聴こえる度に瞬時にこの世に引き戻されるが、目的駅でないと判るとすぐまた眠りに落ちる。しかしそれさえもまた一瞬。またガタンと揺れ、発車ベルにまた意識が戻る。また眠り、また奇妙な夢を観てはぎくりとする。各駅停車だから何度もそんなことを繰り返す。
「…駅。お降りの方はホームと電車の間が…」
 聞き覚えのある声に、しまった!と跳ね起きるのと冷水をぶっかけられたようにアドレナリンが全身を駆け巡るのが同時だった。ろくに見えない眼をこじ開けながら閉じてしまったドアの窓から流れ去る駅名を確認する。どれくらい眠ったのだろう。…だが、かろうじて確認できた駅の名は、またしても目的の駅までほど遠い。なんだ、勘違いか。随分眠ってしまったような気がしてたのに。
 汗びっしょりだ。健康診断で見つかった不整脈が不気味で奇妙なリズムを刻む。時間感覚などとうに滅茶滅茶だ。起きている時間も寝ている時間もよく判らない。それにしても?いったいいつ目的駅に着くのか。奇妙だな、と朦朧とした意識なりに思った。
 環状線だから運行予定としての終点はあるが、入庫予定がない限りはずっと同じルートを回り続ける。だが外を観るとまだ陽は高くなっていない。一周回るには小一時間はかかるから、いくらなんでもそれほど時間は経っていないという事になる。

 だが私はもうひとつおかしな事に気がついた。

 環状線なのだから、極端に言えば線路はずっと同じ方角へ回り込み続ける。だから窓から射し込む陽の光は電車が進むにつれて角度を変えて行く。
 私が乗り込んだ時、当然ながら眩しさを避けるために影の側へ座った。
 でも電車が進めばいずれ太陽は私を直撃する。逆に言えばそのおかげで寝過ごさなくて済むだろうという打算もあった。
 だがあの強い夏の朝日は依然として反対側の座席をオレンジ色に染め、電車は走り続けていた。しかし、いくつもの駅を過ぎている。時間が経っていないはずがない。まして走り続けて丸一日経つなんてありえない。
 もちろん乗り間違えるはずもない始発電車だ。
 今はどこだ?いや、この電車は一体どこへ向かっているんだ!?薄気味悪くなった私は車掌に確かめようと列車の最後尾を目指して移動し始めた。
 貫通ドアを開け、つなぎ目のジャバラの中を抜け、また貫通ドアを開け…しかし行けども、行けども、いくらでも車輌が続いている。たしか環状線に走る電車は10両編成だったはずだ。こんな筈はない。
 私は窓から顔を出して電車の後方を見て悲鳴を上げた。そこには、視界の続く限り車輌が繋がっていた。新幹線の16両編成どころではない。文字通り無限に続いていたのだ。
 振り返って前の方を見ても同じだった。
 そして遥か前方の景色は白い空間で占められていた。

 悪夢なんかじゃない。今こそ私は目が醒めている。五感が、全身の神経がこれは現実だと訴えていた。いったい、何が起こったのか。
 ああ。こんな恐ろしい目に遭う位なら駅など気にせず眠れば良かった。なまじ無理に起きていようとしたからか。しばらくぜえぜえと喘いでいたが、やがて不整脈が治っていることに気づいた。いや。脈が。脈そのものがない?

 もう、ヘトヘトだ。そうだ。これでゆっくり眠れるじゃないか。幸い、横になれる座席はいくらでも空いている。
 だめだ。私は横になったら眠れないのだ──ははは、は



《幕》


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