突然だった。
 いつものように風呂でシャンプーしていた時、それは起こった。

 頭皮へのマッサージは育毛に良いと信じて勢いよく洗っていたら、不意に指先に違和感を憶えた。
 ずるり、と髪の毛が頭皮と一緒に“ずれる”感覚があったのだ。ゾッと全身が総毛だった。
 むろん私はカツラではない。むしろ、年齢のわりに髪は濃く、禿げる心配もなさそうなので同僚からもうらやまれている程なのだ。咄嗟に脳裏に浮かんだのは四谷怪談、夫に毒を飲まされたお岩さんのあの話だ。髪をとかす度にクシに髪がひっかかり、グイと引くと頭皮と一緒に抜け落ちる恐ろしいシーンである。
 眼が開けられないまま恐る恐る頭をまさぐる。泡だらけとはいえ、出血してるかどうかは感触でわかろうものだ。──幸い出血はないらしい。驚いたが痛みもない。
 しかし、頭皮の一部がずれたことは事実のようだ。何らかのケガというか事故が起こったことは間違いないが、このままではラチがあかない。とりあえずシャンプーを洗い落とす事にした。
 まったく痛覚がないということもあって、こわごわ泡を洗い落としている内に落ち着きを取り戻してきた。鏡の中に気も遠くなるような姿を見出すのではという恐怖はあるが、逆に心の準備ができている分、ゆっくりと目を開けてその原因を注視できた。
 右手にはまさに“部分かつら”のように黒々とした髪をくっつけたまま剥がれた頭皮があり、顔面に濡れて垂れ下がった髪のスダレのむこうに白くて丸いものが見えた。
 頭蓋骨だった。

 次に私が目にしたものは、白っぽくて見慣れない天井だった。あのあと気を失って病院にかつぎ込まれたのだ、と看護士に聞かされた。
 怖々頭に手をやると、意外なことにちゃんと髪も頭皮もそのままにあった。包帯さえしていず、もちろん痛みなどない。
 悪夢?いや、そんなはずはない。さっきまで使っていたシャンプーの香りが強く匂うからだ。少なくとも風呂に入っていたことは事実だ。
 医師がやってきた。
「やあ。どこも違和感ありませんか?いや、まだ動いてはいけません。浴室で倒れられたのですから。」
 私もそろそろ歳だ。脳溢血とか脳貧血とかと無縁ではないことは解っていたつもりだが、それらは高齢者の病気だとたかをくくっていた。
 いざその目に遭ってみても認めたくない自分があるが、こうなっては仕方ない。医者のいうことを聞いてできるだけ早く復帰するしかないのだ。
「今は安静にしてゆっくり休んで下さい。鎮静剤を出しますから」

 入院は初めての経験だった。
 薬を投与されてもなかなか寝付けなかった。
 夢と現実がはっきりしないうつつの状態のとき、妻の声が聞こえた気がした。
 主治医と部屋の外で話しているのだろう、声がこもっている。
「そう…あれは下の子が中学に入った頃でしたから…もう10年になりますねえ。」
「ええ。シリアルナンバーから記録を拝見しました。かなり使い込んでおられる」
「今はあんなですけど、すごく良かったんですのよ。相性がいい、というか」
「分かります。愛着が湧くというか、私もクラシックタイプの世話になっているんですよ。まわりからは新型を買えとよく言われるのですが…やはり使い慣れたものが一番良いですね。」
 ぼうっとした頭と意識で聴いていると、相手が医者なのか、いつも立ち寄るサービスステーションの店員なのかわからなくなってきた。

「子供たちももう独り立ちしましたし、できればこのまま最後まで使い続けたいと思ってましたので…ほんとうに助かりました」
「ラッキーでしたよ。失礼ながら、本来なら交換パーツもないのですが、知り合いにそっちのタイプばかりを扱っているヤツがいましたんで。ただ、精算してみないと判りませんが、ちょっと費用がかさむかも知れません…」
「構いませんわ。でも、どうなんでしょう。取り替えてもメモリーは無事でしょうか?」
「大丈夫。今は技術も進んでるんで完全移植できました。まあ、いいことも悪いことも移植してしまうので善し悪しかも知れませんが」
「それもあの人とのかけがえのない想い出ですわ。それにしても…」
「はい?」
「以前、別の所で定期点検を受けた時、きっと接着剤をケチったかでちゃんとくっつけてなかったんだわ。ねえ先生、もうこんなこと絶対ないようにしてくださいね。私だって風呂場で頭の皮が剥がれた彼を見つけたとき、生きた心地がしませんでしたわ」
「今回のことも防水境界がだめになったため陽電子頭脳に水が入ったのが原因でしたからね。証拠があるから補償させることもできるでしょう。」

 …そうか。補償が利くのか。そいつは助かった。まだなんやかんやとローンが残っているからなあ。
 安心したら、ドッと眠気が襲ってきた。

 そうだ。退院したら、一度髪を染めてみよう。せっかく髪の毛があるのだから。



《幕》


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