俺にとって彼女はできすぎた恋人だった。一緒に街を歩けばたいていの男は思わず振り返るほど彼女は美しかった。彼女を連れているだけで誇らしい気持ちになるのも確かだ。そして思いやりも深く、細かなことまで気が利いた。
彼女は、あまりにも凡庸な俺が困惑するほど心から愛してくれていた。うぬぼれではない。俺はお世辞にもハンサムでもなければ能もなく金持ちでもない。
しかし時折いぶかしむ。ノロケでも何でもなく、いったい俺のどこが気に入ったのか解らない。声をかけてきたのも、積極的にモーションをかけてきたのも全て彼女の方からだったのだ。
はじめて夜の公園で彼女を抱きしめたときの夢のような瞬間は忘れられない。甘い髪の香りに包まれながら、完璧な容姿の彼女のただひとつの玉にキズともいえる、耳たぶの古傷を見つけて少し驚いたこと。だがそれも、すぐに柔らかなふくらみの感触にかき消された。
俺は彼女の過去は大学に通うようになってよその街から移ってきたという程度しか知らない。しかし、彼女の方は俺のことをよく知っていた。細かな好みや俺すら気づいてなかったクセ、意識すらしてなかった習慣など。さらにはけっこう昔のことまで。
一緒に暮らすようになってさらに判ったことだが、まさに“痒いところに手が届く”とはこのことだ、というのをなんども実感した。どんなに子供べったりの母親でもこうはいかないだろう。
ようするに、俺の影というか、闇の部分…つまり性的な趣味や趣向まで知っているかのようだったのだ。俺に対して彼女がどうふるまえば俺が喜ぶか、反対に俺が嫌がるパターンがなんなのかすらも解っているようにも思える。
最初は感動した。
甘い夢に酔った。
しかし、彼女の無償の愛を感じれば感じるほど、なんの取り柄もない俺を完全無欠な女性が愛してくれる矛盾への疑問は消えるどころか、むしろ日を追うごとに深まっていった。それは俺の自信の無さから来るコンプレックスの裏返しだったとも言える。
話の端々から、実は彼女はこの街に昔から住んでいたらしいことが判ってきた。「よく知ってるね」と驚くと、買い物に行ったときに雑貨屋の年寄りから聴いたからだと云った。
たしかにあの婆さんはこの街の生き字引であり、放送局だ。だから彼女とそんなディープな話までしたのならあのおばあちゃんは絶対に黙っていない。狭いこの街で、俺に不釣り合いな二人の関係を根ほり葉ほり訊いて来ない筈がないのだ。
だが昨日も今日も、雑貨屋の婆さんは俺になんの反応も示さなかった。
ウソだ。彼女はなぜかウソをついている。
しかし何故?それにこの狭い街でこれほど目立つ美人が昔から近くに居たなら、俺が覚えていないとはどういうことだろうか。
逆に彼女が俺以外知らない秘密まで知っているらしいと気付いたのは、スーパーへ買い物に行った時のことだ。
小学生の頃、友達とふざけていてテラスから落ち、そのとき折った左ひじが今も真下にまっすぐ伸ばすとジワリと痛む。痛むといっても、顔をしかめるほどでもないから親でさえ気がついていない。
もちろん俺は彼女にひじの話をした事はない。だが俺が空いていた左手で彼女の荷物を持ってやろうとした時、「無理しないでいいよ」と云ったのだ。
そういえば彼女は絶対に俺の右側には来ない。つなぐのも組むのも俺の左腕だ。そう、いつもまるでかばうように俺の左腕をそっと抱くのだ。
俺は彼女を心から愛している。彼女も愛してくれている。この愛を失いたくはない。だが疑問はふくらむばかりだった。
彼女は誰なのか。
「ツルの恩返し、って話があるよね?」
ある日とうとうたまりかねて問いただすと、彼女は哀しそうな眼でそう云った。
「お、俺はツルどころか、動物を助けた覚えはないよ」めいっぱい気の利いた冗句のつもりだったが、俺の声はうわずっていた。彼女は何を云おうとしているのだ?
「あなたの事が好きだった。子供の頃から、ずっと」
「子供の頃から!?で、でも俺が君を知ったのは」
「人は変わろうと思えば変われるわ…変装、ダイエット、………手術」
やはり整形…実はそこまでは考えが及んでいたが、ならば、ひじの秘密はどう説明する?
「よくある話よ。親友のつもりが、いつのまにか恋をしていたの」
俺に親友なんて呼べる関係の女友達なんて金輪際いない。親友と呼べるのは男でも……テラスで友達とふざけていて落ちた…いっしょに落ちた。あいつは俺がクッションになったんで比較的軽いケガで済んだ。でもあいつは卒業以来何年も行方が判らないままだ。俺もずっと気になっているが、あいつのことだからある日突然ふらっと帰ってくるものと信じている。
そうだ、あいつだけは知っている。俺のひじの秘密を。
あのとき俺はひじを折り、あいつは耳たぶを…深く切って…
《幕》